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忘却

2015.11.13 (Fri)
お城に行く前の、レハトとレハトママのお話。
他の登場人物はネタバレになるため伏せます。
妊娠出産絡みの胸糞注意。


忘却


 ぴたぴた。ぴたぴたぴた。
 ああ、もうわかったから。起きます。起きますってば。

 夢うつつの状態でいる私の頬を、何かがしきりに叩いている。温かくて、小さくて、しっとりと湿っている何か。叩いているというより、私の頬の弾力を楽しんでいるような気もする。
 あんまりしつこいので私は観念して目を開けた。途端に眩しい光が刺し込み、目の痛みから思わず顔を手で覆う。しかし、瞼に触れた手の感触がおかしい。
 なんだろう、これは。何かを巻いている……?
 
 その時、突然腕の痛みが襲ってきた。腕だけじゃない。肩も、脇腹も、首も、何もかも痛い。痛くてたまらない。耐えきれず口から呻き声が漏れた。呻き声を出す動作だけで顔のあちこちからぴりぴりと引きつった激痛が走る。

「あっ、目が覚めたかい? よかった、よかった」

 聞き慣れない声が耳に届いた。
 誰だろう。目を凝らして声の主を探すが、まだ視界がぼんやりとしてよくわからない。

 ぴたぴた。ぴたぴたぴた。
 痛みがない方の頬に、再び小さい何かが触れた。

「こら、レハト! いたずらしないの!!」

「むー」

「ごめんなさいね。すぐ、お医者様を呼んでくるから。ちょっと待っててね」

 いったい何が。何故、私はこんなことに。
 それを問う前に、忙しない足音は次第に遠のいていってしまった。ここがどこなのかもわからない。私と共に置いていかれた子は、きゃっきゃと笑い声をたてながら私の頬に触るのに夢中で、とても会話が成り立つとは思えない。
 確か、「レハト」と言っていた。これもまた聞き覚えのない名前だ。どうして私は見知らぬ人に看病されている状態に陥っているのか。
 
 昨日は何をしていたんだっけ。
 何とかして記憶を辿ろうと試みる。その瞬間、血の気が引いて、身の毛もよだつ恐ろしい感覚が体中を襲った。

 わたしは、どこに住んでいた?
 家族は?
 歳は?
 名前は?

 何一つ思い出せない。


  ◇  ◇  ◇
 

「名前も何も思い出せないと。うーん……。何かきっかけがあれば思い出すかもしれないけど……」

「……」

「でもまあ、命が助かっただけでも奇跡みたいなものだ。それくらいひどい怪我を負って何日も眠り続けていたんだよ。怪我だけならまだしも、君は……」

「先生」

 レハトの母親が慌てたように口を挟み、医者の言葉を遮る。母親はわずかに首を振り、戸惑った表情を浮かべ、それを見た医者も溜め息ひとつ吐いて言葉を飲み込んだ。何だろう。医者は何を言いかけたんだろう。どうしてこの母親はそれを止めたんだろう。混乱している私には、相手の動作すべてが不安を掻き立てる要素にしかならない。

「とにかく、この親子にお礼を言いなさい。倒れていた貴女を見つけて、ずっと看病してくれていたんだ」

「あ、ありがと、う、ござい、ます」

 顔の傷と包帯のせいでたどたどしい言葉になってしまった。喉が痛くて声が出しにくい。そもそも、私の元の声はこんな感じだったのだろうか。そんなことすら思い出せない。

「身体が良くなるまで、ここで養生したらいいよ。あんまり大層なもてなしはできないけどね」

「うー。うばばば」

「さっきみたいないたずらしないよう、レハトにもよおく言い聞かせておくから。ちょっと騒がしいのは我慢しておくれね」

 記憶を失い、身体もろくに動かせない私には、何よりも有り難い申し出だった。家の中の様子からして決して裕福な暮らしではないだろうに。医者にかかるお金だって、この母親が用立ててくれたに違いない。怪我が治ったら、自分がどこの誰なのか記憶が戻ったら、何としても恩を返さなければ。

 しかし、そんな日が果たしてやって来るのだろうか。

 自分の顔を見ることはできないが、きっと傷だらけ包帯だらけで見るも無残な状態なのだろう。しかしレハトという子は、私の顔を見てにこにこと笑顔を浮かべている。母親が言う、さっきの「いたずら」だって、ちっとも不快じゃなかった。小さな手に触れられて、その温もりに何とも言えない心地よさを感じていた。何も思い出せないけれど、きっと私は子どもが嫌いじゃないということだけは確かだ。

「おせわに、なります。ほんと、に、ありが、とう」


  ◇  ◇  ◇


 親子の家はどこかの集落に属しているわけでもなく、人気のないところにぽつんと建っていた。知り合いも友人も居ないのか訪れる客もなく、私の意識が戻ってからこの親子以外に目にした人間は定期的に診察に来る医者ぐらいなものだ。

 何か人目を避けなければならない事情があるのだろうか。
 向こうから何も言わないのだから、こちらから聞けるはずもない。
 だが、そんな人里離れたところで生活していたおかげで、私は親子に発見されて幸運にも山へ登らずに済んだ。信心深い人ならば、これこそがアネキウスのお導き、とでも言うのかもしれない。

「治ったら、いつかきっと治療にかかった費用などはお返ししますから」

 何も出来ずに世話になりっぱなしなのが申し訳なくて、何度もそう申し出たが、

「気にしなくていいよ。困った時はお互い様さ。それより、いつも貧相なご飯で申し訳ないくらいだよ」

と、母親は笑って答えるのだった。

 温かい看護のおかげで、私の身体は日が経つにつれて順調に回復していった。包帯が取れ、あちこちに刻まれていた傷跡に幾分驚いたものの、これだけの傷を負って助かったことが本当に奇跡のようにも思えた。
 きっと、同じくらいひどい傷跡が顔にも残っているのだろう。
 私を知っている人に出会えても、私だと気付いてもらえないかもしれない。

 このまま記憶が戻らなかったら。自分がどこの誰なのかわからないままだったら。
 先が見えない恐怖は何度も私に襲いかかってきた。その度に、母親の笑顔やレハトの笑顔に励まされてきた。生きていれば何とかなる。遠慮しないで、いつまでもうちに居てくれていいと言われ、どれだけ私の心が救われただろう。

 もう少し回復したら起き上がっても大丈夫ですよ。と、医者のお墨付きをもらったある日。レハトの服のボタンが取れかかっていることに気付いた。寝台から身を起こして手でレハトを招く。

「あー? う? う?」

「ボタン取れかかってるねえ。ちょっとお洋服脱いでみようか?」

 側に寄ってきたレハトの服を脱がせながら、「すみません、縫い針と糸は……」と母親に声をかけようとした、その時。慌てたように母親が駆け寄ってきてレハトを抱き上げる。抱き上げたと言うより、私から引き離した、と言った方が正しいかもしれない。
 あまりの剣幕に、そして今まで見たことがない母親の必死の形相に言葉を失ってしまった。
 
「……あ、あの。えっと……」

「あ、ああ。ごめんね。あ、ボタンが取れかかってたのね。ほら、レハト。服を脱ぐからバンザイして」

 取り繕うように笑顔を見せる母親。加えて、少し丁寧すぎる動作でレハトの服を脱がせていることに違和感を抱いたが、「可愛い我が子を、よそ者に触れさせたくなかったのかもしれない」と反省した。

 針と糸、そして洋服を渡され、

「大丈夫かい? 無理しなくていいんだよ?」

と母親が心配そうに声をかけてくる。表情からして先ほどの出来事は気にしていない様子だ。安堵しながら、ボタンを付け直す作業に集中する。
 手先だけなら動かせるし、何か少しでも手伝いをと思って申し出たが、自分でも驚くくらい指が滑らかに動いた。見守っていた母親も目を丸くしていたほどだ。あっと言う間にボタンは付け終わり、締め具合も位置も完璧だと称賛された。

「あなた、もしかしたら縫い物関係の仕事をしていたのかもねえ」

「そうでしょうか……」

「そんなに身体を動かさなくても済むし、外からそういう仕事を持ってこようか? 何かしているほうが『世話になっている』って負い目を感じなくてすむだろ?」

「じゃあ……少しずつやってみようかな……。お願いできますか?」

 こうして私は服の補修や洋裁や刺繍で家計を助け、身体が回復してからも親子の家に住み続けたのだった。


  ◇  ◇  ◇


 記憶を無くしたといっても、それは自分自身に関することのみで、日常的な知識は頭の中に残っていた。
 ここはリタントという国であること。
 大陸を縦断している長い長い壁があること。
 アネキウスという神様がいること。
 お城には王様が居て、そして「寵愛者」という徴を持った者が王を継承するというしきたりが続いているということ。
 この国に住んでいる者なら誰もが知っている事柄は、私の中で当然のように馴染んでいた。

 だから、母親からレハトの額のことを打ち明けられた時は言葉を失うほどに驚いた。それと同時に、今までの全てのことが自分の中ですとんと腑に落ちる。
 レハトを服を脱がそうとして母親に慌てて引き離されたのも。「川に水浴びに行こうか」とレハトを誘っても、やんわりと母親に断られたのも。いつでもどこでも私とレハトを二人きりにさせないよう、絶えず母親がレハトに付き添っていたのも。私に徴を見せないようにするためだったのか。

「これから一緒に暮らしていくとなると、やっぱり隠しておけないと思ってね」

 とある夜。レハトが眠りについた後に、母親は静かな口調で話を切り出してきた。

「本当はね。あんたを見つけた時も、見て見ぬふりで放っておこうと思ってた。余計なことに首を突っ込んでレハトの身に何かあったら。他人を近づけて、お城にレハトのことが伝わってしまったらって考えると怖くて。でも……」

 そこまで言って、母親はちらりと私を見てから口を閉ざしてしまった。

 そんな懺悔を聞かされても、母親を責める気持ちなんて私にはこれっぽっちもなかった。結局はこうして助けてくれたのだ。この人のおかげで屋根のあるところで生活ができて、ささやかな額ではあるが仕事でお金を稼ぐことができて、どんなに感謝しても足りないぐらいだ。むしろ、抱えていた秘密を打ち明けてくれて嬉しいとさえ思った。

 数か月間を共に過ごして私という人物を観察して、信用に値すると評してくれて、だから全てを曝け出してくれたのだろうか。私は、母親にそのままの言葉で訊いてみた。
 
「うん、そうだね。あんたが悪い人じゃないっていうのがよくわかったっていうのもあるし……、それに、やっぱり私も弱っていたんだと思う。今まで何とか必死にやってきたけど、一人で抱えきれなくなって、誰かに頼ってしまいたくなったっていうのもあって……」

「いいですよ、頼ってください。……あんまり大した手助けにはならないかもしれませんけど」

「他に行くところがないあんたに、こんな話をするのは卑怯だってわかってるんだ。でも、決して『置いてやる代わりに、一緒にレハトを守るのが条件だ』って脅してるわけじゃあないんだよ。あんたの記憶が戻ってここを出て行きたくなったら、いつでも送り出すつもりでいるから」

「仮に、そんな日がやってくるとしても、レハトのことは一切他言しません。絶対に」

 ありがとう、と母親は何度も呟いて、涙ながらに私の手を握った。私の目にも涙が浮かんでいた。レハトを起こさないよう、二人して気を遣いながら鼻をすすり合う。
 
「ただ、ちょっと……。わからないことがあって」

「何だい?」

 母親の話を聞いた時から、少し疑問に思っていたことを私は口にした。

「レハトのことを城に知らせないのは……やっぱり引き離されるのが怖いからとか、馴染めそうにない城での暮らしが嫌だから、ですか? レハトが次期国王として迎えられたら、それがレハトにとっていちばん安全だと思うんですけど……。それほど静かな暮らしを望んでいるということなんですか?」

「あら、知らないのかい? もうお城には、既に徴持ちが一人いるって聞いたからさ。レハトが出てきたところで、いろいろ面倒なことになるのは目に見えてるだろ?」

「もう一人、徴持ちが……」

「下手をしたら、私ら親子ともども消されてしまうかもしれない。そんなまさか、物騒な、とも思うんだけどね。お城の中ことは、私ら庶民には何もわからなくて想像しかできないから」

 何だろう。何かが引っかかった。
 胸がざわざわして落ち着かない。
 話し続けている母親の声すら耳に入ってこない。
 何かを掴みかけたのに、手を伸ばした途端にフッと消えてしまった。
 何だろう。
 なんだろう。
 居ても経っても居られないような、自分の中の何かが思い切り叫んでいるような、説明の出来ない何か。何か。何か。

「そうだ。レハトの額、見てみるかい? 現物を見るのは初めてだろう?」

「あ、そ、そうですね」

 母親の声で我に返る。
 正直、それどころではないというのが私の気持ちだった。しかし今の自分の状態をうまく説明できる自信がない。当たり前だが、こうして他人とレハトの話をするのは向こうも初めてなのだろう。母親は、少し浮かれているようにも見えた。

 寝ているレハトの前髪を恐る恐る分けると、うす暗い部屋の中で徴がぼんやりと光を放つ。
 
 寵愛者を直に見る機会なんて、ましてやこんな風に額の徴を間近で見ることなんて、普通の人ならばまずあり得ないだろう。
 だが、徴を見た途端に私の鼓動は跳ね上がった。
 動機は収まらず、「どうして、この子にこんな徴が出ちゃったんだろうねえ……」と苦笑する母親に生返事しかできない。

 私はこの徴を見たことがあるような気がする。
 いつ?
 どこで?
 
 思わず手を伸ばして徴に触れたくなった。しかしすぐに思い留まり、手を引っ込める。
 何となくだが、徴に触れるのはいけないことだと咄嗟に感じたからだ。

 どうしてそう思った?
 わからない。
 わからないけど、触れたらレハトが泣き出しそうな気がした。
 
「あ、徴には触らないようにしてあげてね。何だか嫌みたいなんだよ。この間もうっかり触っちゃった時に、泣きやまなくて大変な目に……」

 母親の言葉に、もう私は茫然とすることしかできなかった。


  ◇  ◇  ◇

 
 それからは、大した問題も起きずに平穏に暮らしていた。
 レハトは病気ひとつせずすくすく育ち、居候の私にも懐いている。怪我はすっかり良くなったが体を思うように動かせず、顔の大きな傷のこともあって、私は親子の家から極力出ないような生活をしていた。

 本当は、近くの集落などに出向いて、自分を知っている人を探すべきなのだとはわかっていた。誰か、私に見覚えはありませんか。この辺りで行方不明になっている女性の話を聞いたことがありませんか。
 しかし、レハトの徴を見た時の言いようのない不安感からして、きっと私は「思い出せない」のではなく、「思い出したくない」のではないかと思うようになった。看病されている時は申し訳なさでいっぱいだったが、今は事情が違う。レハトを守るために母親に必要とされている、という言い訳で、私は過去のことをあまり考えないようにして日々を過ごした。
 母親も何かを察しているのか、気を遣っているのか。無理に私の記憶を戻そうと促したりはしなかった。

「ぬの、やー。あたま、ぎゅって、やー」

「我慢して。おでこの痣は隠さなきゃ」

「むー」

「わあ、レハトよく似合う。かわいいかわいい。布を巻いたらかわいいよ」

「……かわい? えへ」

 一度だけ、レハトの父親について訊いてみたことがある。いつもの母親らしくない「亡くなった」という簡潔な説明しか口にしないことから、あまり触れてほしくないのだなと悟った。お互い過去に干渉せず、成長していくレハトの一挙一動に笑って、驚いて、この先どうなっていくのかという不安は隅に追いやって私たちは暮らしていた。

 そんな穏やかな生活は、レハトの母親が病に倒れ、あっと言う間に亡くなってしまったことで終わりを告げる。

「おかーしゃん、ねてる?」

「うん……寝てるんだよ。明日も明後日も」

「ずっと、ねんね?」

「……うん」

 臨終の間際にレハトを頼むと言われたわけでもない。それを口にすることができないくらい、母親は急激に衰弱したまま山へと登ってしまった。
 だが、レハトを放って自分ひとりで生きていくなんて考えられない。そんな非道なことできるはずがない。今までの恩に報いるためにも、私にできるのはレハトを育てていくことだと思った。思うのは簡単だが並大抵のことではない。苦労するのは目に見えている。身体が不自由なのに母親の代わりになんてなれるのだろうか。
 それでも。
 血は繋がっていないが、こんなにも愛情を注いできたレハトと離れ離れになるなんて考えたくなかった。

「……レハト。このおうちとお別れするのは寂しいけど、別のところに移ろうか」

「うつる?」

「おばちゃん、あんまり身体を動かせないからここだとお仕事がしにくくなっちゃうの」

 傷のある顔を見られたくないとか、過去の自分を知っている人に会いたくないとか、そんなことを言っている場合じゃない。このままではすぐにお金が尽きて生活できなくなってしまう。こんな人里離れたところではなく、どこか住みやすそうな集落に身を寄せるべきだ。
 
 私は長時間かけて母親の遺体を埋葬し、レハトと一緒に旅に出た。
 まず、どこへ向かおう。
 とりあえず海から離れて、内陸のほうへ行ってみようかな。
 私は、あの波の音があんまり好きじゃないから。波の音が聞こえないところまで。海が見えなくなるところまで。

「おかーしゃんねてるから、おばちゃんが、おかーしゃんになるの?」

 小さな手が、私の服をぎゅっと掴んだ。
 何と答えてよいかわからず苦笑する。

「うーん……。今までどおり『おばちゃん』でも『お母さん』でもいいよ。レハトの好きなように呼んでね」


  ◇  ◇  ◇


 薄暗い部屋で、ちらちら揺れる灯りが不気味に老婆の顔を照らす。
 占い師と名乗った老婆はずっと無表情だ。こうして二人きりで向かい合って、もうどれくらい時間が経ったのか。

 やっぱり衛士に頼んで追い払ってもらうべきだった。主人についてきてもらえばよかった。
連日に渡ってしつこく訪ねてくるから仕方なく自室に招いたというのに、どうしてもお伝えしたいことがと言っていた割に相手はなかなか口を開こうとしない。
 淀んで濁った瞳が気持ち悪い。
 深く被ったフードから見え隠れしている白髪も気持ち悪い。
 何か深い事情があるのでは。話を聞くだけなら。そんな思いから、護衛もつけずに奇妙な人物を近付けてしまったことを後悔した。

 やがて老婆はニタリと笑い、ボロボロになった歯を見せつけながら信じられないことを口にした。

「子は、産まれ出たら災いとなりましょう」

 表情と言葉が一致せず、背筋が寒くなる。
 わざわざそんな恐ろしい言葉を告げるためにここまで来たのか。何なのだ、この老婆は。
 私を怒らせるのが目的なのだろうか。何故? そんなものわかるわけがない。向こうが何を考えているのかわからない以上、努めて冷静に対処する必要がある。

「……災い、とは? 具体的にどのように?」

 思ったよりも普通の声で言葉を返すことができた。しかし老婆は間髪いれずに、

「兄弟で憎み合うことになるのは間違いないでしょうな」

と負けじと応戦してきて、私は絶句せざるを得なくなってしまう。
 怒りを閉じ込めておくのはもう無理だ。ここまで無礼極まりない言葉をぶつけられて、怒りが湧いてこないほうがどうかしている。思い切り相手を睨みつけてやるも、大して気にもしていない様子で老婆は話を続ける。

「断言してもいい。その腹のお子に徴はございません」

「……そ、それがどうしたと言うの? 徴が無いからと言って兄弟が憎み合う理由にはなりません。馬鹿馬鹿しい。ヴァイルはそんな子ではないわ」

「本当にそう思ってらっしゃるのか? ご自分の夫を間近に見ているのに?」

「……っ!」

 本当に何者なのだ、この「占い師」は。
 城の内部の事情をどうしてそこまで知っている?
 私だって全てを把握しているわけではない。夫は詳しく語ろうとしないし、問いただすのも憚られた。だが不穏な空気はずっと薄々感じていた。
 おそらく、夫は兄である国王を良く思っていない。だがそれに気付いている者が、この城に一体どれだけ居ることか。 

「そこまでお腹が大きくなれば、どんな名医でももう流すことは不可能でしょうなあ」

「冗談じゃないわ、誰がそんなことするもんですか!!」

「まあとにかく。お伝えしたかったことはこれだけで。では、この辺で失礼いたしますよ。いいですか、アタシは忠告しましたからね」

 老婆が居なくなってからももちろん怒りは収まらなかった。深呼吸を繰り返し、大きいお腹を何度もさすりながら心を落ち着けようと試みる。
 あんな得体の知れない者の言葉に、こんなに動揺してしまうなんて情けない。
 災い? 兄弟で憎み合う? 
 有り得ない。私の子たちは、そんな愚かではない。
 そう頭の中で何度も何度も呟くも、老婆の忠告はいつまでも私の中に居座り続けた。
 
 気にすることなんかない。
 ……でも、もしかしたら。
 もしかしたら、と考えることすら私の子たちへの冒涜に等しい。
 しかし夫と陛下は、何故あんなにもよそよそしいのか。何か理由があるのか。
 やはり徴がある者と無い者では分かり合えないということなのか。
 私の子たちも、あんな風に溝ができた兄弟になってしまうのだろうか。
 
 違う違う。
 この子に徴があるかどうかもわからないのに。考えすぎだ。
 きっと、出産間近で私の心が不安定になっているだけなんだ。

 たまに変な声が聞こえたような気がするのも。
 どこからか、誰かに呼ばれたような気がするのも。
 全部、体調が思わしくないからなんだ。
 
「あの、陛下のお許しが貰えたら、の話なんですけど。ここではなくてランテ領で出産しようと思うんです。……駄目かしら?」

 老婆の言葉を真に受けたわけではない。
 そう。ただ、静かで落ち着いた場所で、心穏やかに出産を迎えようと思っただけなのだ。
 老婆の言葉を真に受けたわけじゃない。
 真に受けたわけじゃ……。


  ◇  ◇  ◇


 なんだか、とても嫌な夢を見ていた気がする。
 寝汗で髪がぴったりと頬についていた。胸が苦しくて、息が苦しくて、どんな夢だったのか思い出そうとしただけで吐き気が込み上げてくる。

「おかあさん、どしたの?」

 隣で寝ていたはずのレハトが心配そうに声をかけてきた。
 しまった、起こしてしまったか。

「あ、なんでもないよ。ちょっと嫌な夢みちゃっただけ」

「ふーん……」

 安心したのか、すぐにレハトは安らかな寝息をたてて再び眠りについた。
 あどけない寝顔を見ていると、次第に心が落ち着いてくる。そのうちに吐き気もどこかに行ってしまった。

 ここまで何とか無事にやってこれた。慣れない土地でも、それなりに二人で暮らしていけた。
 きっと、これからだって大丈夫。しっかりしなきゃ。覚えていない悪夢に惑わされている場合じゃない。

 そう、今の私には考えなきゃいけないことが山ほどあるのだ。 
 年が明けたら、レハトの篭りまであと一年しかない。周りに怪しまれずにどうやって篭りを乗り越えるか。だいぶこの村に馴染んできたところだったが、そろそろ場所を移すことを考えたほうがいいかもしれない。篭り中に何かあった時のために、簡単な医術も学んでおいたほうがいいだろうか。

 レハトがむにゃむにゃと聞き取れない寝言を言う。
 無邪気な様子に、思わず顔が綻んでしまった。

 いつまでもいつまでも、こうして穏やかな寝顔を見ることができますように。
 レハトの頬をつつき、アネキウスに祈りを捧げながら私も眠りについた。


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